ドクターズ・ライフ 皮膚科専門医 岩本麻奈先生 vol.1
2017.11.16
皮膚科医でありながら、コスメプロデューサー兼美容ジャーナリスト。最近では、悩める女性たちを救う数々の著書を世に送り出す岩本麻奈先生。常識に縛られない型破りなスタイル、底知れぬバイタリティーはどこから来るのか。華麗で波乱万丈な人生を語る。全5回。
#01 母との確執がわたしの独立心を育んだ
耳年増な子どもだった
子どもの頃の話をするのは、初めてかもしれません。わたしは世田谷で生まれたのですが、両親が多摩市郊外の聖蹟桜ケ丘で産婦人科を開業していたので、そこで育ちました。
ただ、多摩でのびのびというわけにはいかなかった。母がすごい教育ママで、その当時のエリートコースだった番町小学校→麹町中学校→日比谷高校という進路を進ませたがったんです。
それで住所を千代田区に移して越境入学。自宅から学校まで1時間半、小学1年生から毎日満員電車に揺られて登下校していました。番町小学校には越境入学の子が割といたんですが、一番遠かったんじゃないかしら。
通学に時間がかかるから、学校が終わったら校庭で遊ぶ友達を横目に、すぐに帰宅しないとならない。通勤ラッシュの混雑は凄まじいし、痴漢もいたし、怖い目にもたくさん逢いました。でも、面白いこともあったんです。
当時は、高度成長期まっただ中、いまよりずいぶんおおらかな時代だったから、小さいわたしが一人で電車に乗っていると、いろんな人が話しかけてくるんですよ。
あるときは、隣に座ったおじいちゃんに「結婚はしておくもんだ、子どもは3人つくったほうがいいぞ」と言われて「どうして?」と聞くと「欠けるってことがあるから」なんて、いまではなかなか聞けないことを教えてもらったり(笑)。
巨大な荷物を背負った行商のおばちゃんに話しかけられたときは、訛りで全然内容が分からないんですが、ニコニコしながら聞いていたら、商品を分けてくれたこともありました。
疲れ切ってつり革にしがみつくお父さんたちの姿もよく覚えています。見ず知らずの人たちから、厳しくも愉快な社会のことを学んでいたんだと思います。
お友達とあまり遊べず、一人っ子というのもあり、少し大人っぽくて耳年増な子ども時代を過ごしていました。
教育熱心な母から逃げたくて
両親ともに医者だったし、当然医者になるべくして育てられました。少なくても後継者となるお婿さんはもらってねという感じで、プレッシャーは相当なものがありました。
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